冶金学と金属加工に関するエジプトの知識

冶金学と金属加工に関するエジプトの知識

 

1. エジプトの冶金と金属加工

草創期にエジプト人たちは金属の扱い方を学び、5000年前に古代エジプト人たちは既に採鉱、製錬、金属加工の技術を開発していた。

古代エジプト人は、銀、銅、スズ、鉛などの多種類の鉱石は持っていなかったが、大量のエレクトラム(金と銀の合金)、銅、青銅合金などを製造していた。彼らはエジプト国内や他の国で功績を発見するために、自らの専門技術を利用した。彼らは必要な鉱石を見つけ、採鉱作業を行い、陸路又は海路で長距離を高荷重を運搬する知識も手段も持っていた。

そのため、古代世界で最も大きく豊かな民であったエジプト人は、大量の原材料を輸入し、代わりに大量の加工製品の輸出を行った。古代エジプト人の製造した金属または非金属製品は、地中海盆地やヨーロッパ、アジア大陸、アフリカ大陸各地の墓から見つかっている。

様々な天然色を使ったグラスや磁気を製造することができたことから分かるように、エジプト人たちは相当の化学的知識と金属酸化物を持っていた。また、古代エジプト人は、様々な金属の成分に関する知識や、異なる物質に岩塩類が引き起こす効果に関する知識を使って、銅から美しい色を作ることもできた。これは、化学と冶金学に関する「現代」の我々の定義と一致する。

  • 化学は、科学とは物質の成分と特徴に関して、またどのような反応から生まれた物質なのか、もしくは反応を起こしてどの成分に変化するかということを扱う科学である。特定の題目もしくは活動範囲にこれを応用する。科学的特徴、成分、反応、物質の利用。
  • 冶金学は、金属の科学であり、特に、溶解して製錬して鉱石の状態から金属を分離させ、利用できる状態にする科学である。

金属加工の方法:金属の溶解、鍛錬、漏洩、彫金は、あまり行われていなかったが、非常に高いレベルで発達していた。古代エジプトの金属加工の記録に関する多数の引用からも、古代エジプトにおけるこの産業の重要性が実感できる。

エジプト人の金属を合成する技術は、ルクソール(テーベ)やエジプト各地で発見された花瓶、鏡、青銅器によって多分に証明されている。彼らは、適切な混合の合金で、青銅の成分を変化させるため、いくつもの方法を採用した。また彼らは、現在ベルリン博物館に貯蔵されている短剣が示すように、真鍮刃や青銅にある程度の柔軟性を与える秘術も持っていた。この短剣の刃の柔軟性、正確性、仕上げの完璧度は驚きに値する。現在ヨーロッパ各地の博物館に所蔵されている多くの古代エジプトの製品には、10から20のスズと、80から90の銅が含まれている。

金属の柔軟性に関する彼らの知識は、金属のワイヤーや糸の製造が可能であったことからも証明されている。ワイヤーを引っ張る作業は、金や銀に加え真鍮や鉄などの最も柔軟性の高い金属で行われた。金の糸やワイヤーは引張の結果であり、平らにされた形跡は全くない。銀のワイヤーはトトメス3世の墓で見つかっており、金のワイヤーは、トトメス3世[紀元前1490~1436年]より600年前に生存した、オシルタセン1世の名前を付けた指輪に使われていた。

エジプト人たちは金属から糸を作る技術を完成させた。それは、布を織ったり、装飾にしたりするほど十分に細かった。数多くの動物の姿が金糸で縫い込まれたイアフメスのデリケートなリネンがあるが、これには非常に高度な細部と技巧が求められた。

金属製品を製造するのに必要な科学と技術は、古代エジプトにおいて完成され周知されていた。また、それによって数多くの金属合金が大量に製造されていた。彼らの知識が示されている例証を次に見て行く。

 

2. 金銀(エレクトラム)製品

古代エジプト人は、エジプトで採鉱される金を用いていた。また銀も利用していたが、これはエジプトでは発見されたことが無く、イベリア半島から輸入された。彼らは銀だけを利用するか、もしくはエレクトラムとして知られる金と銀の合成を行った。古代エジプトの記録によると、ネテル(男神、女神)は、宇宙のエネルギー源であるところのエレクトラムから作られたという。彫像や魔除けなどの宗教的なものに加えて、頻繁にこの合成物は、個人的な装飾や飾り壺に用いられた。金と銀の割合は通常2:3であった。トトメス3世(紀元前1490~1436年)の時代の古代エジプトパピルスには、ある役人が、36.392uten、つまり7,286lbs[3,311㎏、672g]の重さのひと塊のエレクトラムを受け取ったことが記されている。

金と銀は、銅と青銅と同じ方法で、小さな彫像を作るために鋳造された。二つの金属はよく固い数珠の形で見つけられるが、それらは少なくとも6,000年前の物である。

ベニハッサンにある中王国時代の墓では、金細工師の仕事の概要が理解できる。鉱石を洗浄する工程、吹管を使った製錬もしくは金属の溶解、装飾にするための形成、秤量、資材目録記録、金細工師のその他の仕事など全てがこれらの墓に描かれている。

金が堅く鋳造されなかった場合、均一の厚さの板の形に平らに加工された。板状の金は、木製の家具を装飾するのに使用された。厚い板は直接木材に打ち付けられ、小さな金のリベットで固定された。薄い板は、恐らく糊のような、粘着性のもので、用意された漆喰の基礎に張り付けられた。極薄いシートは、彫像やミイラの仮面、棺桶やその他の品のコーティングに用いられた。これは漆喰の薄い層の上に置かれたが、エジプトの職人が用いた粘着質の物質の性質は未だ明らかになっていない。

大量の材料を使用する能力は、現在カイロ博物館で展示されているツタンカーメンの300lbs.[136㎏]の金でできた納棺で示されている。

 

3.  銅製品と青銅製品 

古代エジプトでは銅と青銅の合金を製造するに足る鉱石が無かったため、銅、砒石、スズは、国外から入手していた。彼らは、5,000年以上前に、大量にこれらの合金を製造していた。

エジプトの銅は砒石を加えて硬化させていたが、銅に対する砒石の割合は、使用目的によって変化した。この成分の変化については研究がずっと行われてきている。例えば、短刀や鉾槍はより強い刃を備えており、4%のヒ素銅を含んでいるが、戦斧(斧と鉾を組合わせた武器)や武器の先端には2パーセントのヒ素銅が含まれていた。ヒ素銅は、先王朝時代[約紀元前5000年]から中王国時代[紀元前2040~1783]まで使用されていた。

古代エジプトの石(パレルモ石として知られ、現在パレルモ博物館に所蔵されている)は、第二王朝[約紀元前2890~2649年]のカセケムイの銅像製造の記録である。ペピ1世[紀元前2289~2255年]の銅像は、最も古い現存する金属製彫像の例であり、現在カイロ博物館に収蔵されている。多量の金属が溶解されては、何度も再利用されているため、これは残存する初期の彫像の過少性を示す、エジプトの金属の中でも間違いなく貴重な性質のものである。

ヒ素銅の製造に加えて、古代エジプト人は青銅製品も製造していた。銅にスズを少量加えて青銅を作り、融解点を下げて硬度を強化し、かつ鋳造を大幅に平易にした。スズの量は0.1%から約10%まで著しく変化する。草創期の多くの青銅製品が見つかっている。同時期の他の青銅製品と同様に美しい切り口のペピ1世[紀元前2289~2255年]の名を持つ円筒から、青銅製のアイテムの鋳型は紀元前2200年よりも古いことが分かる。

青銅産業は、国にとって大変重要であった。青銅が完璧に製造され、エジプト国内で大型容器や道具、武器に用いられた。現在パリのルーブル博物館に収蔵されているポスノ・コレクションのような、古王国時代[紀元前2575~2150年]以降のあらゆる時代の完璧な青銅製品が数多く残っている。

古代エジプトの種々の鈴が、墓の中に入れる前に丁寧に布に包んだ状態で発見された。膨大な量のこれらの鈴は、現在カイロ博物館に収蔵されている。

鐘は主に青銅から作られていたが、時にはそれは金や銀から作られることもあった。その形状もそれぞれ異なる。数多くある種類の形状のいくつかには、花萼を表すのこぎりの歯のような形をした口を持つ鐘がある。大量の鐘の鋳型[現在カイロ博物館収蔵。収蔵番号#32315 a, b]は、古代エジプトの金属鋳造に関する好例である。これらの鋳型には、液体状態の金属を流し込む湯口の跡がはっきりと見て取れる。この典型的な古代エジプトのベルを分析したところ、82.4%が銅、16.4%がスズ、1.2%が鉛であった。

エジプト人が様々な種類の青銅合金を使用していたことが、新王国時代の文書から分かる。それらの文書には、「黒青銅」や「6つを組み合わせた青銅」への言及が度々見られる。「6つを組み合わせた青銅」は六重合金を意味する。このような異なる銅の種類はさまざまな色調を生み出した。黄銅は、亜鉛と銅化合物である。(さらに微細な種類の)白真鍮には銀の混合物が加えられており、これらは鏡として使われ、「コリント青銅」としても知られている。その化合物は銅が添加されることで、金色に近い黄色を帯びる。

銅と青銅は、大釜、水差し、鉢、柄杓などの幅広い家庭用品の原料であり、またさらに、戦斧だけでなく短刀、刀、槍、矢などの幅広い道具と武器の原料でもあった。

例えばベニハッサンの墓に描かれている中王国時代[紀元前2040~1783年]の記録から、種々様々のリベットのついた多様な盾[図を参照]など、古代エジプトの武器の数々について知ることができる。

新王国時代[紀元前1550~1070年]、古代エジプト人は国境を守るため大軍を構成した。エジプト人は、軍事力として傭兵を借り、エジプト人は戦いに必要な道具を製造した。

安全で裕福なエジプトは、第18王朝時代[紀元前1575~1335年]には大量の金属製品を製造することが可能であった。この製造量の増加は、鉱山労働の増加につながり、ついては同時期のイベリアの墓におけるエジプト銅と青銅製品の量の増加であった。このことついては次章の最後に言及する。

古代エジプト人は、今から5,000年前に開発した銅と、砒石、そしてスズが大量に必要であった。三つの鉱石は、古代世界で知られた唯一の原産地、イベリアから輸入された。考古学的記録は、初期に利用した南イベリアの鉱物資源は銅と砒石であることを示している。スズに関しては、イベリア半島の西海岸に沿って走り、ガリシア州から恐らくコーンウォールまで続く「スズの道」はよく知られている。ストラボンは「地理学」第三巻で以下のように述べている。

スズ……は採掘される。それはルシタニアを超えた地のカッシリデス諸島に住む異民族の国で生成されている。さらに、スズはイギリス諸島からマッシリアへ運ばれる。

東地中海地方、すなわち古代エジプト、から続く「スズの道」沿いであった初期の接触の証拠は、モスタファ・ガダッラ著 『Egyptian Romany: The Essence of Hispania』で紹介されている。

 

4. 釉薬(ガラスと釉薬)製品

古代エジプトは先王朝時代「約紀元前5000」から数多くの釉薬製品を生産していた。早期の釉薬製品は、石英や凍石を芯として利用したガラス玉がほとんどであった。凍石は、いくつかの大きな製品に加えて、お守り、ペンダント、ネテル(男神/女神)の小さな人形のように曲線のある小さなものに利用されたが、それは釉薬の理想的なベースとなった。釉薬を塗った凍石製品は王朝時代[紀元前3050~343年]を通じて見つけることができ、スカラベに使用される最も一般的な材料である。同様の釉薬技術が、大量生産する葬儀器財(お守り、ウシャブティ)と住宅装飾(タイル、花模様の象眼)にも使われた。

古代エジプトの釉薬製品の種類の豊富さとその質の高さは、彼らの冶金に関する知識を示している。エジプト釉薬の最も一般的な色は、青、緑、青緑である。色は銅化合物を加えた結果である。銅と銀の混合物を使うと、より素晴らしい結果が得られた。

古代エジプトのガラスは、強力に加熱された石英砂とナトロンに、緑色と青色のガラスの両方ともを作るため使われる銅化合物、または孔雀石などのような着色剤を少量混ぜて形成された。

吹きづくりは、サッカラのティ「紀元前2465~2323年」の墓や、ベニハッサン(4000年以上前)やその他後年の墓にも見ることができる。

釉薬は、ガラスと同じ材料を同じ方法で融解したものでできているので、エジプト人はかなり早い時期にガラス製造を始めていた可能性がある。固く光沢のある釉薬は、ガラスと同質のものである。ガラスの容器を作るのに用いた技術は、釉薬の技術として自然に開発されたものである。

エジプトのガラスのボトルが、第四王朝[紀元前2575~2465年]の遺跡に残っている。様々な色のエジプトのガラスのボトルは、ギリシャ、エトルリア、イタリアやその他の国々に輸出されていた。

ルクソール(テーベ)の墓で見つかった多数の破片が証明するように、古代エジプト人は、ガラスを異なる色で色付けする技術を用いて、素材の様々な特性に関する自らの優れた知識を見せつけた。

本物の石から偽物を見分けるのは難しい。

これらのやや貴重な石からできた色の種類は魅惑的である。その範囲は、ラピスラズリの澄んだ青からトルコ石の激しい青、カーネリアンの斑入りの金まで及び、これら三種の石がエジプトの宝石美術を最も代表する石といえる。またさらにエゲート、アメジスト、赤鉄鉱なども用いられた。それに加え、留意すべきことは、エジプトの職人は、象形文字やカルトゥーシュで飾られたエナメルの大きな額で驚くべき仕事をしたことである。

ガラスのモザイクは、様々なパーツで構成され、それぞれ別々に作業が行われたのち、溶剤を用いて熱でもって接合した。古代エジプトのガラスのモザイクは、非常に素晴らしい見事な色彩をしている。

ガラスは、一般にエジプトの七宝と呼ばれるものの中によく見うけられる。七宝は、金属の枠にはめ込んでセメントで固定したガラスの粒、ファイアンス焼き、石などでできた象眼を指す言葉である。ガラスの粉を七宝に置き、粉を溶かすのに十分なだけの熱を加えて、ひとつのコンパクトな塊にするという工程を踏む。

釉薬を塗った壺、タイル、その他の陶器は、主に古代エジプトで生産された。タイルの中には、釉薬を多量に使い、濃厚な青でデザインしたタイルなどもあった。また、玉虫色の金属光沢を持った陶磁器も製造していた。

エレガントなエジプトのファイアンス焼きの鉢。ベルリン博物館所蔵。ひとつの頭を共有する3尾の魚と三つの蓮花の絵で装飾されている。

 

タイルの中には、(銅、マンガン、コバルトなどの)金属酸化物とアルカリ性ケイ酸塩に水を混ぜて作った色素で塗られたものもある。最高品質の釉薬を塗ったタイルは、約4,500年前からサッカラで見つかっている。階段ピラミッドから700ft.[300m]ばかり行ったところにある「南の墓」は、サッカラで1924~1926年にラウアーとファースによって、誰にも干渉されていない状態で発見された。それは、階段ピラミッドの墓室と同様に、青いタイルが敷き詰められた複数の小部屋から構成されている。

 

5. 鉄の製造

ピラミッドは、「青銅器時代と鉄器時代」より以前に建造されているが、ピラミッドの時代のエジプト人たちは、隕鉄(いんてつ)を知っていた。古代エジプト人は鉄を“bjaと呼んだ。“bja”という言葉は、主要な王たちの「骨」に関連して、サッカラのピラミッド複合体(約4,500年前)で見つかった「ウナスの葬礼(ピラミッド)文書(UFT)」の中で度々言及されている。

私は清浄、私は鉄(bja)の骨を持つ、私は生まれいずる所に収めた私の不滅の四肢を伸ばす…[UFT530

私の骨は鉄(bja)であり、私の四肢は不滅の星。[UFT1454

王の骨は鉄(“bja”)であり、彼の四肢は不滅の星。[UFT2051

 古代エジプトで鉄は利用されていたため、鉄の鉱山がエジプトの砂漠の中に見つかるはずである。ヘロドトスは、鉄器についてピラミッドの建造者たちが使っていたと語っている。ヘロドトスの言は、19世紀までにエジプト学者によって各地で発見された古い石造建造物の中に埋もれていた、いくつかの鉄器によって証明されている。また、ルクソール(テーベ)の遺跡、もしくはメンフィスの墓においても、4,000年以上昔に、エプロンに掛った金属製の湾曲した柄のついた精肉店の鋭利なナイフが描かれており、その青い色から鋼以外の何物でもないだろう。ラムセス3世の墓から見つかった青銅と鉄の武器の絵は、ひとつは赤で彩色され、もう一方は青で描かれて区別されており、同時期に双方が利用されていたことに疑いの余地はない。

ホメーロスは、明らかにイーリアス[23.261]の中で鉄の利用と赤い鉄の金属が水につけられるとどのようにシューッという音を出すか語っている。

「金属の発展」(銅、青銅、鉄など)に関して学術界が決めた独断的な年代は、完全に根拠に欠けている。刀や短刀、その他の武器や甲冑といった多様な青銅製品は、あらゆる国で継続して利用されてきたものであり、随分後になって鉄の利用が周知されるようになったのだ。西欧の学術界は、古代エジプト人が青銅製品の利用を放棄しなかったために、エジプト人の叡智と鉄製品の利用を横暴にも否定している。しかし、青銅製のギリシャとローマの武器と道具の発見された事実においては、西欧の学術学会は、ギリシャとローマが鉄を顧みなかったという解釈はしなかった。したがって、エジプトでの鉄の製造とその知識に関して、独断的に無視されるべきではない。

 

6. エジプトの鉱山

古代エジプト文明の几帳面な性質から、彼らは、採鉱作業の調整や探索に関する内容を書き残している。現存する古代エジプトの記録は、5,000年以上昔に、エジプト内外のおびただしい数の場所で行われていた採掘作業における恐るべき組織力を示している。

シナイ半島のセラビト・エル・カーディムにあるトルコ石の鉱山は、張り巡らされ坑道と、適切な場所に注意深く切り開かれた垂直と平行方向の通路で構成され、古代エジプトの全時代を通じて使われた、典型的な古代エジプトの鉱山である。古代エジプト人は、掘り出した横坑と立坑に的確な支えを入れ、深く長い坑道を作ることができた。地下水の横坑や立坑への漏出は、安全にポンプでもって地上まで汲み上げられた。このエジプトのポンプは世界的に有名で、イベリアの鉱山でも利用されたことについては、ストラボンが以下のように「地理学」[3.2.9]において述べている。

ポセイドニウスが示唆するには、トゥルデタニ族[南スペイン]の炭坑夫たちの活力と労力は似ている。なぜならば、彼らは立て坑を斜めに深く掘り下げ、立て坑内に流れ込む水を、エジプト式のスクリューを用いて汲みだしたからだ。

大変信心深いエジプト人は常に、それぞれの鉱山か、もしくはその傍に、記念碑と共に神殿か寺院を建設する。全く同じことが、記憶にないはるか昔から銀や銅などが採掘されているイベリア半島のようなエジプト国外の採鉱現場でも見られる。

シナイのセラビト・エル・カーディムにある古代エジプトの採鉱現場は、典型的な採掘現場であり、そこには谷を見下ろす岩の段丘に高くそびえ立つ「トルコ石の女神」と呼ばれる、第四王朝時代[紀元前2575~2465年]、またはさらに古い時代からある小さなハトホルの神殿が建っている。この神殿は後に、新王国時代の王、特にトトメス3世によって、拡張された。神殿の前方には少なくとも半マイルは、鉱山のための遠征を記念する碑文で四方を覆われた、数多くの巨大な記念碑が並ぶ通りのようなものが続く。

市内のワジ・マグハレフの鉱山には、未だに労働者のための石の小屋や、シナイのベドウィンの攻撃からエジプト人たちを守るために建てられた小さな要塞が建っている。この鉱山からそう遠くないところに水の井戸があり、要塞の水を確保するのに十分な水槽となった。このワジ・マグハレフの鉱山は王朝時代[紀元前3050~343年]を通じて活発に動いていた。

セティ1世[紀元全1333~1304年]に関係の深いラデシエフ(Redesieh)の砂漠の神殿にある第十九王朝の碑銘には、石工に鉱山での作業と坑夫たちに双方に水を供給する井戸を掘るように指示している。井戸が完成したのち、鉱山と「神殿付きの町」が建設されたのだった。後継者であるラムセス2世「紀元前1304~1237年」は、計画に手を加えて追加の井戸を掘らせ、採掘現場に沿った道路にまで必要な水がいきわたるようにした。

それぞれの採掘現場は、案を練り、計画が立てられ、実際に図面が用意された。セティ1世とラムセス2世の治世にあった、金の鉱山に関係する現場の地図が二枚、古代エジプトのパピルスの形で見つかっている。1枚は、部分的なもので、東方砂漠のベヘン山の金鉱の地図で、ラムセス2世の治世にあたるものである。発見されたパピルス上での計画では、山々の間を並行して走る二本の谷間が描かれている。この谷間のひとつは、多くの砂漠の巨大な谷間にあるように、地表水の排出による土の浸食を管理するため下木や岩のブロックで覆われていた。準備された計画は、鉱山内部の道路網に加え外部道路との接続システムや「海までの道」まで、現場の詳細が描かれている。その敷地設計図には、鉱石金属処理エリア(洗浄など)、小規模住宅、倉庫エリア、様々な施設建築物、小聖堂、貯水槽などが見て取れる。採掘現場の周囲は、鉱山の居留地に必要な食料を供給するための農耕地になっている。

古代エジプトの記録から採掘現場の労働力に対して様々な部署と専門職を設けていたことが分かる。

その記録から採掘作業の組織構成が読み取れる。残存している記録には、東方砂漠のベヘン鉱山においてハマメットでの作業を指揮した、古王国時代と中王国時代の様々な役人の名前と役職が示されている。技術者もいれば、坑夫、金属加工し、石工、建築家、芸術家、安全管理者、遠征隊が水辺に戻って帰路に就くときのために船の状態を管理する船長などがいた。

鉱石金属は、厳重な安全管理の元、エジプトのナイル河谷沿いの人口密集地域まで陸路と海路で運搬される前に、採掘現場で処理がほどこされる。

エジプトの鉱業は非常に体系的な事業であり、現場を行き来する人々は、採鉱現場の仕事の確認、作業の適切な効率性の保持、現場の労働者たちの交替管理だけでなく、その包囲された環境での必要設備の提供も行った。古代エジプトのペピ1世[紀元前2289~2255年]の時代の記録には、採掘場の現場監督の氏名、およびその現場を視察した高位の役人たちの氏名ならびに役職が示されている。その碑文には、「全ての作業における主任監督官」、「主任技術者」などといった多くの役職名が記されている。ある偉大な人物は、ハマメットの視察を行うために二度その現場に訪れている。一度目は自らの代理人に同行され、二度目は神殿の壁面に書かれた宗教的文書に問題があった際に、生贄の地の管理委員会の監督官と訪れている。

ラムセス4世[紀元前1163~1156年]の治世の記録は、「作業監督官」の指揮のもと、東方砂漠のベヘン山に遠征を行った際の報告である。遠征は総勢8,368人で組まれた。この中には、50人以上の文官と聖職者と200名の様々な部署からの役人が含まれていた。現地調査は、三人の監督官の元で働く坑夫、石工、その他の関連作業員と「主任監督官」で行われた。力仕事は5000人の坑夫や鍛冶工、石工たちなどが行い、2000人が様々な労働をした。安全のために、少なくとも110名の役人が800人の傭兵の監督をしていた。保安隊は鉱山の防衛と人と物資の安全な輸送を保証するのに必要であった。この大勢の人間の管理は、非常にうまく行われていた。8,368人というのは今日においても、大きな共同体である。

古代のエジプト人は、他国からの原材料を探して、自国で育んだ専門技術を使って探索、採掘、そして世界中から原材料の輸送を行った。古代エジプトの採掘の特徴が、イベリアなど多数の場所で発見されている。

 

[からの抜粋  古代エジプトの文化を解き明かす- 第2版   によって書かれた モスタファ・ガダッラ]

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